京都在住の歴史研究家、鳥居光広さんが現在、「京相撲」の歴史を解き明かそうとしている。
北野天満宮の近くに住み、北野の歴史を調べている鳥居さん。相撲の起源とされる野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのはけやま)の力比べだといわれているが、北野天満宮に野見宿禰を祭っている末社があることや、近くに「出水川部屋」という相撲部屋があったことを知り興味を持っていたという。
「誰に聞いても『知らない』と言われていたので正直なところ半信半疑だった」と鳥居さん。しかし大阪相撲の番付としてオークションに出品されていた番付が大阪相撲のものではないと気が付き、落札してみると番付は京相撲の明治初期のもので、番付によると八坂神社の一角で7月に予定されていた。「もしかしたら祇園祭との関連もあったのかも」と鳥居さん。
京都でも神社の寄進を目的としない興行的な相撲興行が解禁となった1702年に大坂相撲の興業が行われていることから、このころから京都でも興業が行われていたと思われる。当初は人気を博していたようだが、任侠(にんきょう)が興業を行うようになり、力士は東京や大阪へ脱走したことから、弱体化が進んだという。
京相撲の「最後の横綱」となる大碇紋太郎は、1910(明治43)年に開催された「日英博覧会」での相撲興行の話に乗り渡英を決意。力士のほぼ全てを連れて遠征し、興業は成功した。さらにヨーロッパ大陸での巡行を進めるも、途中で仲間割れが起き、アメリカから南米へ渡り、ついには解散となったといわれている。これにより、京相撲は途絶えてしまったという。
「京都にも力士の墓など、京相撲の名残を見ることができる。こうした史跡をたどるガイドなども練っていきたい」と鳥居さんは話す。