京阪電車の三条駅(東山区)近くに鎮座する像とその人物について調べた。
2メートル近い台座に載った座像は遠くからでも目立ち、三条河原町の待ち合わせの定番だ。現場で待ち合わせをする人に聞いてみると、「『土下座』で通じる」と話す男性会社員や、久しぶりに友人と会う予定だという女性も「三条の像で」と約束した、と教えてくれた。学生は「周りはみんな『土下座像』と呼んでいる」と話し、木屋町方面に消えていった。
この像は誰なのか。聞いてみても首をかしげる人が多かった。しかし、「御所の方角を向いている」「京都に入る時に礼をしている姿。土下座ではない」という回答も。「知らなかったが、待ち合わせの相手に『高山彦九郎の像ね』と返事された」と答える男性もいたことから、全く知られていない訳ではないようだ。
この像の人物、高山彦九郎は1747年、上野国新田郡細谷村(現在の群馬県太田市)に生まれた思想家。寛政の三奇人(奇人は傑物の意味)のうちの一人に数えられる。13歳で「太平記」を読み、祖先が南朝の武将、新田義貞につながることを知る。18歳で置き手紙を残し京都へ遊学。三条大橋で皇居の方角に平伏したという(三条の像はこの姿がモチーフとなっている)。学者や公家に出入りして学んだが、祖先の新田義貞を討った足利尊氏の眠る墓碑を鞭(むち)で打ったという逸話も残されている。
彦九郎は各地を旅して遊説を行い、多くの人物と交流を持った。京都では公家や国学者、画人、江戸では支援者だった大名や儒学者、各地の藩士、蘭(らん)学者の前野良沢宅にも滞在した記録が残っている。27歳から47歳で自刃するまでのほぼ全ての年の日記やその写本が残されている。水戸では伝記が作られ、尊王運動の先駆者的な存在とされた。
彦九郎の没後7年後に生まれた吉田松陰は、水戸で彦九郎のことを知り、兄への手紙の中で彦九郎を武士の手本のような人物、と評している。松陰の号については、出身地の松下村に由来するという説があるが、彦九郎の謚(おくりな=戒名)である「松陰以白居士」から取ったという説も唱えられている。松陰に学んだ高杉新作や久坂玄瑞も彦九郎の墓を訪れていることが分かっている。
戦前は、小学校の修身の教科書に載るなど知られていたが、戦意高揚のために利用された反動から、現在の教育現場でほとんど扱われなくなる。しかし、昭和40年ごろから、民間の町おこしが端緒となり、再評価の動きが高まった。同市では生誕200年を記念館が1993年に設立し、その生涯を紹介している。
同館を運営する同市歴史施設課は、京都の跪座像については、設けられた時代や思想が異なることから答えにくいとしつつも、「彦九郎は、それまでの体制が揺らぎだした時代に生きた経世家であり、新しい時代の到来をいち早く予感し行動した人物。時代の先を見越せる力は現代人の評価にも堪えるのでは」と話す。